【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
弟への仕打ち 苦い記憶に
宗教学者 山折哲雄(1)
忘れがたい思い出がある。
子守唄をうたわなかったという苦い記憶である。辛い、耐え難い思い出だ。
私には4人の弟妹がいたが、下の2人が幼児のうちに、この世を去った。そのころのことが今ごろになってよみがえり、私の心を責めさいなむ。
妹がチフスを病んで死んだのが昭和15年6月。5歳になったばかりだった。そのとき私は尋常小学校の4年生。この年の11月には紀元2600年を祝う大々的な式典が行われ、翌年の12月8日になって太平洋戦争が始まった。
その妹が死の床に横たわっていたとき、子守唄をうたった記憶がまるでない。5歳下の妹が突然いなくなって、深い悲しみに沈んでいた両親の姿がしきりに思いだされる。
もう1人の弟が急性肺炎であっという間に死んでしまったのが、昭和23年4月1日のことだった。享年3歳。戦後の食糧事情のまだ悪い時期だった。
われわれは東京大空襲を機に疎開し、故郷の岩手県花巻に移住した。
私は新制高校の2年になっていた。そのころ、学校から帰ってくると、毎日のように母から弟の子守をするようにいわれていた。心のうちでは、嫌々面倒を見ていたように思う。かわいがりもしたけれども、うるさがっていた記憶の方が鮮明に残っている。
冬になってコタツが入ると、弟をひざの上に抱えて、いつも小説を読みふけっていた。小便をもらしたり、騒ぎ出したりすると、押さえつけていじめていたような記憶もかすかに両の掌に残っている。だから優しく子守唄をうたって寝かしつけるようなこともなかったのではないか。
そんな私を見つけると、母親がしかって、弟を取り上げ、低く悲しげな声で歌をうたっていた。あれは子守唄だったのだろう。
今にして思えば、それが敗戦前後のころだったことになる。小学校から中学校に進んでいった時代である。そして、そのころのことが、今ごろになって耐え難い思い出になってよみがえってくる。それに重なって、子守唄の懐かしいあれこれの旋律がのど元をついて出てくるようになった。
私の子守唄、ということでいえば、つい告白しないわけにはいかない原体験である。