【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
心に残る 兄の「コオロギよ」
作家 志茂田景樹(1)
いちばん上は男、中間はすべて女という兄姉の末っ子に生まれたぼくは、母の背中に負われて子守唄を聞いた記憶がない。もっとも、ぼくの子守唄は十三歳上の長姉の務めだったからで、長姉のうたう子守唄にはかすかな記憶がある。
背中のぼくをゆすりながら、ねんねんころりよ、おころりよ―とうたってくれたような気がする。しかし、その子守唄なら、十五歳も年の離れた、たったひとりの兄に聞かされたもののほうが、強く心に刻まれている。
兄はぼくがそろそろ五歳になろうという昭和二十年の二月に兵隊にとられ、その年の八月に戦死している。
兵隊にいくまでの、たぶん一ヶ月たらずの短い期間だったにちがいないが、僕に一生懸命、片仮名と平仮名を教えてくれた。僕が小学生になる前に絵本をすらすら読めるようになったのは、そのときの兄の特訓のおかげである。
入営の日をごく間近にひかえていたと思われるある日、兄はぼくの顔をじっと見つめて、ねんねんころりよ―とうたいだした。このときの兄の歌声は、いまもってぼくの耳から離れることがない。
なぜなら、ねんねんころりよ―のあと、コオロギよ―とつないだからである。僕はそのときからかなり長いあいだ、この子守唄のうたいだしは“ねんねんころりよ、コオロギよ”だと思いこんでいた。
“おころりよ”だと、とっくにわかっていたころ、なぜ兄は、コオロギよ、とうたったのだろうか、とたいへん興味をおぼえ、その興味はずいぶん長くぼくの心に留まっていた。
平成六年の夏に九十四歳で亡くなった母は、その夏に入る前に体調を崩すまで、庭の花の手入れ、草むしりなどを含む家事の万端を自分でこなしていた。自室で病床についてからは、ウツラウツラしている時間が多くなった。そんな状態からちいさな叫び声をあげて目を覚ましたことがあって、いあわせたぼくに、「寄宿舎の夢を見ていたよ」
と、かすれた声で言った。
母は嫁入り前、東京の本所にある技芸学校に学んで嫁入り修行をしていた。そこの寄宿舎で昼食当番のとき、突如、大地震が発生した。関東大震災である。母は火の海になった下町を逃げまどい、何日もかけて伊豆の実家にたどりつくことができた。同期の寄宿生の多くは焼死したというが、そのことを母がくわしく語ったことはない。
目を覚ました母は、すぐに目を閉じた。その口からかぼそい歌声がもれた。
ねんねんころりよ コオロギよ
それが母から聞いたはじめてで、最後の子守唄になった。コオロギよ―は母の独創であったのか、それとも、寄宿生のだれかがうたっていたのだろうか。