【15オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
父が口ずさんだアイヌの子守唄
作家 志茂田景樹(2)
父から手紙をはじめてもらったのは、中学二年の春だった。手紙の文面以上に、脳裏に強く焼きついたのは、同封されていた一枚の写真だった。
仁王立ちのように立たせた巨大なヒグマの前で、父をはさんで屈強な男たちが猟銃を手にいならんで写っていた。
父は旧国鉄の工事畑の人間で、北海道の山間の現場に長期出張中だった。その年の暮れに現場からもどってきた父が話してくれたことによれば、猟銃を手にしていた男たちは現地採用の人たちで、ヒグマが出たという報に仕事をほうりだし、山へ入ってしまったので、父もついていったということだった。父は話のおわりにこう言った。「あのなかにアイヌの人がひとりいてな。酒を飲むと、子守唄をうたう、アイヌの子守唄だ」
浪曲ファンだった父は、そのアイヌの子守唄のサビを浪曲のようにうなってみせた。
歳月が流れ、ぼくが小説家としてようやくスタートしたころ、病気ひとつしなかった父が直腸がんになった。肺や肝臓にも転移していて余命一年と言われた。
本人への告知がほとんどなされていなかった時代で、その病状を主治医から聞かされたのはぼくだった。母へどう告げようかと自宅にもどる途中、父の手紙に同封されていた、あの写真が鮮明に頭に浮かびあがった。
それが「黄色い牙」誕生のきっかけになった。「黄色い牙」は最初、北海道を舞台にヒグマと闘う男を描くつもりだったが、ヒグマの細かい生態がいまひとつはっきりつかめなかったので、秋田を舞台にツキノワグマを狩るマタギの物語に変えた。
そうして、それが脱稿したとき、父は小康状態を得て一見、元気に生活していた。そして、それが本になり、さらに直木賞の候補にあげられ、それの選考会がせまったときには、病床で枯れ木のようにやせ細り、死期に近づいていた。
幸運なことに「黄色い牙」は受賞した。ぼくはその夜、担当編集者らと飲みまくり、翌朝になって帰宅し、二階にあった書斎で仮眠をとった。
頬を軽く突かれたような感触で目を覚ますと、寝巻きを着た父が朝刊を手にして見おろしていた。「おい、おまえのことが新聞に出ているぞ!」
父はしっかりと叫び、ぼくには輝くように見えた笑顔を浮かべた。
他人が見たら幽鬼さながらだった父が自力でどうして二階へあがってこれたのか、いまもって謎である。そして、もうひとつ、父がハミングしたアイヌの子守唄がどんなものなのか、いまも気になる謎である。