【9オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
息子の唄に反応した意識不明の夫
内閣府政務官 山谷えり子(5)
「子供は3人以上。仕事は続けたい。子供をかわいがる人と結婚したい」と29歳で見合いをし、振られに振られてやっと出会えた夫は、約束通り、生涯、私を支えてくれた。
育児休業制度もない時代だったが、早朝、深夜勤務のシフト制の職場勤めであった夫は、料理も公園遊びもPTA活動も近所づきあいも、ある時はフーフーしながら、ある時はエンジョイしながら、いつもそばにいてくれた。
ふり返ってみると、子育てほど崇高なものはなかったと思う。朝5時起きで子供の弁当を作った19年間の弁当づくりほど誇らしい喜びはない。幼い瞳が、白い雲や風にそよぐ草や光るトンボの羽根を追うたびに、私もまるで生まれて初めて雲や草を発見したかのように感じ入るのだった。すべての生命に感謝し祈ることを教えてくれたのは子供たちの力だった。
平成15年の夏。イラク戦争直後のイラクに国会議員として視察に行き、帰国した成田空港で長女から夫の交通事故を知らされた。それ以来、私の中で“ある時間”は今も停止したままでいる。
ほとんど意識不明の夫に、子供たちと私は病室で5日間、歌いかけ、しゃべり続けた。作詞作曲をする息子は
昔 父さんの背を必死で追いかけてた。
母さんの手を握りしめてダダこねたりした・・・
絵に描いたような夢物語を
嬉しそうに支えてくれた父さんを
僕を愛している
ユー ドント クライ
ユー ドント クライ
と、自作の唄を歌った。医師は意識不明を宣告したが、夫の心電図は歌いしゃべるたびにピクンピクンと動き、私たちは泣き笑いしながら歌いに歌った。
この世は悲しみと残酷さに満ちている。けれども、またもったいない恵みでもあふれている。夫が亡くなろうとするとき、長女は「体が死んだくらいで何よ、魂はつながっているわ」と言った。
長男は「父さんのまねをして、社会人、家庭人になればいいんだ。愛は深まるばかりだよ」、二女は「17で別れるなんてひどすぎる。でも何十年分も愛してもらった気がする。幸せにならなくては」と言った。
横で姑が「息子はこれからもいい父親としてこの子たちの中で永遠に生き続けるのね・・・感謝ね」とつぶやいた。
夫が3人の子と姑に励ましの息吹を与えてくれたのだろうか。胸がいっぱいになった。
夫に死なれるまでは“未亡人”という単語は無礼千万な言葉だと思っていたが、今では美しい言葉と感じる。「比翼の鳥」「連理の枝」と表現される夫婦の結びつきがようやく体感され、此岸(しがん)にいながら、彼岸から逆照射して物事が見えるような気がしている。
「乳児は肌を離さずに、幼児は手を離さずに少年は目を離さずに、青年は心を離さずに」の心を多くの人が持ち、歌う心をつないでいけたら、恐ろしいスピードで荒廃していく風潮も止まるだろう。
62歳で亡くなった父は、3歳と1歳の孫を病床で抱いて、「子供は明るい時に学ぶ。大人は悲しい時に学ぶ。明るく育てなさい」と最後の別れの言葉を私に残してくれた。