【17オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
わが子通し「生命のリレー」実感
内閣府政務官 山谷えり子(2)
31歳で母になった私を、父はニヤニヤしながら「親になるっていうのは、リハーサルなしのキツイぶっつけ本番。覚悟を決めておけ。パパはえりちゃんの夜泣きでノイローゼになったんだから」とからかった。
父の予言どおり、長女の夜泣きは半端ではなく、毎晩5−6時間もぶっ続けで泣くのだった。通信社で国際局の記者をしていた夫は、早朝勤務や深夜勤務のローテーションもある。ゆっくり眠らせてあげたくて、長女の夜泣きが始まると私はオンブをして街に出た。
ねんねんや おべろんや
ねんねの寝たまに まま炊いて
赤い茶碗に ままよそて
白いお皿に ととよそて
起きたらあげるで ねんねしな
ねんねんや おべろんや
この父方の故郷・福井県三国地方の子守唄には、なぐさめられた。
「ご先祖さまたちも、苦労なさったんだなあ。なかなか寝てくれないのが赤ちゃん。母親になればハッピーと考えていたのは甘かった。親のありがたさと苦労が身にしみる。思い通りいかないのが育児と心得よ」と、深夜の街を時にはエイヤッと、時にはボソボソと自分に言いきかせながら歩き回ったものだった。
母方の故郷・福井県鯖江地方には
ねんねんや さいころや
おぼろんや
ねんねが寝たまに
まま炊いて
小豆三合に米三合
炊いて炊いて 炊きまぜて
という“ねさせ歌”もある(資料・日本子守唄協会)。
祖母は「20代遡ると100万人のご先祖さまがおいでになってお前を守り、応援してくれている。思い通りいかないのが人生やけど、ご先祖さまの応援の声を忘れたらあかん」と、私にたびたび語ってくれていた。赤い茶碗に白い皿、小豆と米のちゃぶ台を思い描きながら「ご先祖さま、どうぞ頼りない私たち母子をお守りください」と、夜空を仰いだものだった。
それまで記者としてバリバリと飛び回り、時間と競争し、報道人としての生き甲斐を感じていた私は、母親になることによって、100年前、200年前の生命のリレーをわが子を通して悟り、“生命のリズム”という報道のリズムとは全く違うテンポを実感した。
昼間も2、3時間おきに泣いて、母乳を吸うのに小一時間もかかるわが子に、新米ママになったばかりのころは苛々(いらいら)もして「これじゃグランドキャニオンの谷底に虫ピンで止められたようなもの」と嘆いたりもした。が、母乳を飲んでは、花のようにほほえむわが子にむしろ育てられ、私もゆっくりと少しずつ母親らしくなっていった。
恨みがましい、べそっかき子守唄ばかり歌っていた私も、いつの間にか気がつけば夢の国へと赤ちゃんをいざなう祈りの子守唄を多く歌うようになっていた。