【15オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
成長への祈り込めうたった「かなりや」
内閣府政務官 山谷えり子(3)
3児をほとんど年子で授かって母親になれたことを感謝しない日はない。夫が生きているころ、私は毎朝「ねえ、今日もまた私たちはお父さんとお母さんをさせてもらえるのよ。奇跡ねえ」と繰り返しては、夫にあきれられていた。
皇后さまは、昭和35年、浩宮さまご誕生の折、
あづかれる宝にも似て
あるときは吾子ながら
かひな畏れつつ抱く
とお詠みになられた。
母親になって“おかげさまで”“もったいない”“ありがたい”という気持ちや畏れ、慎みなどの感覚が研ぎ澄まされたように思う。
3児はお腹にいるときから、その個性を存分に発揮していた。長女は大胆にドンドンと蹴り回り、長男は繊細なトレモロのように動き、二女は穏やかに慎重に動いた。誕生してみると、性格や体の動きがお腹の中にいたときと同じようで“生まれつき”とやらの力を実感せずにはいられなかった。
昨今は、子供を“つくる”という言い方を誰もあやしまなくなっているが、不遜なことで“授かる”ものではないだろうか。長男に母乳をやると、2歳になったばかりの長女がやきもちを焼いて暴れることもあり、両手に2人を抱いて唄を歌ったり、絵本の読み聞かせをしながら過ごした。
私も弟が生まれたときは、かわいがりもしたが、やきもちを焼いて座布団を投げながら暴れ回った記憶がある。そんな私を母は優しく抱きしめてくれた思い出を胸に、私も子供たちを抱きしめて、人生は螺旋階段のように似たような風景がいとしく繰り返される、と思ったものだった。
西條八十が大正7年「赤い鳥」に発表した『かなりや』はよく歌った。
歌うべき唄を忘れるのは、かなりやだけでなく、人間も同じであり、そんな時、この母のような忍耐と知恵と大きな愛で包めるような女性に成長させてほしいと祈りつつ歌った。
大正7年から10年は童謡・子守唄が次々と発表された時代である。
北原白秋の「揺籠のうた」も大正10年のことであった。
白秋は、エッセーの中で「私たちが子供の時は・・・寝る時には行燈(あんどん)が枕元に据ゑられ、そのぼんやりとしたなつかしい光のかげで、私たちは『あの山こえて』のねんねん唄や『天智天皇秋の田の』といふあの百人一首の歌でとろりとろりと寝かされたものでした」と記している。
3番目に誕生した二女は幸せ者で、姉と兄が枕元で歌い話し、とにかくかわいがった。私は前に抱っこ、後ろにおんぶ、右手に長女、左手に買い物袋と合計二十余キロを下げて走り回る日々だったが、子供たちとおつかいをしながら清水かつらの『靴が鳴る』(大正8年)や『七つの子』(大正10年)を歌うほど、母親であることがうれしくてありがたくてならなかった。
また、街を歩いていると、見知らぬおばあちゃんが目を細めて「大変でしょうが、子育ては人生の華の時代よ」と声をかけてくれたり、おじいちゃんが「ありがとうね、子供は宝だ」と励ましてくださることも、もったいなくてならなかった。
ベソかき母をたくましく育ててくれたのは、子供たちの愛の力と多くの人の励ましの力であり、授乳と子守唄が、未熟な私の母性に火をつけたのである。