【11オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
“凍りついた家”に漂流する子供たち
赤枝六本木診療所院長 赤枝恒雄(2)
厳しいしつけに耐えかねて、私は高二で家を出た。私が通っていた徳島県立城南高は、毎年、東大へ五、六人、京大や阪大へも多数の合格者を出した。地方では「名門高」だったため、家庭教師ならできると思った。
まずは家探しをすると、うっそうとした竹やぶの中に一軒の古い二階建ての家を見つけ、訪ねた。そこに住む老いた婦人が、「城南高の生徒さんなら、うちの孫に勉強を教えてくれれば、家賃はいらないよ」と、タダで住み込みに成功した。
不思議なことに、この家の家族構成は、祖母と孫の二人だけ。鍵はなく、戸を閉めても寒風が音を立てて通り過ぎていった。いつも決まって、板の間に座布団も敷かず、正座して朝ごはんをいただいた。メニューは固定で、毎日、ご飯と薄いみそ汁、たくあんだけだった。
ところが、私にはこんな生活が夢のようで楽しくて仕方ない。“もう自由だ”と思うだけですべてが楽しかった。
私の実家の生活水準は他の家より高かったのかもしれないが、“冷たい空気”の中で私は生きられなかった。毎日、「勉強しろ」の一言で親から遠ざけられていた。
私は七年前から夜の東京・六本木で子供たちのために、「街角無料健康相談室」を開いている。そこで知り得た若者の、親や家庭に対する感じ方が、あまりにも私に似ていることにびっくりした。“凍りついた家”より、コンビニの前の汚い路上に座っておしゃべりをする方が楽しいと言う。
“プチ家出”の常習者は、親に殴られた子が多い。しかし、その中に、「よく殴られるけど親が好き」と言った子がいる。「私のどこが悪いのかを指摘したうえで殴るから仕方ない。でもそのあと、コンビニに連れてってくれるからお父さん好き」と話した。
その親は見事に「アメとムチ」を使い分けている。グループの中でその子だけは一人、早く帰る。口癖が「うちの親、怖いから帰る」だった。これこそ親の威厳だと思った。
私は父親との距離が離れたまま、打ち解けることなく父は逝き、母にも親孝行らしいことが何もできなかった。後悔してももう親はいない。
今、私は街角相談室に来るケバい(派手な)メークの彼女たちに、いつも言っていることがある。「お父さんの誕生日いつ?お母さんは?ああ、もうすぐだね。必ず、顔を出しておめでとうって言ってあげてね。会えなかったら、はがき一枚でいいから送ってあげて・・・」
プチ家出をしている子供たちを、何としても親につなぎとめておきたい。なぜなら、親を捨てた子は必ず漂流して事件などの被害に遭うからだ。
こんな子供たちと話をしながら、私は“この子供たちには子守唄が必要だ”と思った。子供を守る唄、赤ちゃんから大きな子供まで、子供たちを守る唄が必要だ。
私が一番欲しかったのは、しっかりと感じさせてくれる親の愛情だったのかもしれない。それを感じさせてくれるのが「子守唄」だと思う。
子守唄をうたう親が増えると、不幸な子供はいなくなると確信している。