【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
つらかった“異常な”しつけ
赤枝六本木診療所院長 赤枝恒雄(1)
私は子守唄を知らないで育った。“凍りついた”家庭で、父親の顔色を見ながら育った私にとって、子守唄を語ることは全く縁のないことだと思っていた。
四年ほど前、あるパーティーで、隣り合わせになった日本子守唄協会代表の西舘好子さんから子守唄の普及、伝承の意義を聞いた。
このとき、私は「こ」「も」「り」「う」「た」という五つの音節に異常な興奮を感じた。それは親子の愛情に飢えた自分を見事に突き刺した。長く自分自身の中に潜みトラウマのようになっていたためだ。
物心ついたときから、異常なしつけを受けていた。
同じ小学校へ通う近所の子供はバスで通学していた。私は「足を鍛えないと丈夫にならない」と命じられ、片道一時間を歩いて通わされた。
また、小学校低学年のころから毎週、書道、弓道、バイオリンの先生が家に来た。私の心中はそれを拒んでいた。
書道は「集中力をつけるため」、弓道は「体力をつけるため」、バイオリンは「将来の国際社会に通用する聴力を身につけるため」。それぞれに強いられた理由があった。
小学生の私には親の心が理解できなかった。それは優雅なけいこごととはほど遠く、部活のように友達がいるわけでもない。先生と一対一のレッスンは苦痛だった。
それ以外でも、日々の生活は思いだすのがつらくなるものばかりだった。ごはん一粒残しただけでも、茶碗とはしを持たされ、外に出された。父を怖がっていた母は助けに来てくれない。私は朝まで外で震え、真冬には、風呂場で水をかけられることもたびたびだった。
学校から帰ると、机に向かっていないとしかられた。袖の中にイヤホンのコードを通して鉱石ラジオを聴いて、殴られた。
中学生になったある日、泣きながら父につかみかかった。旧制高知高校の柔道部だった父の足払いを受け、私は宙に舞い、ふすまにぶつかって落ちた。父の存在が堅固な岩のようで、自分ではどうにもならないことを思い知らされた。
私が生まれ育った故郷には『徳島の子守歌』という寝させ唄がある。最近になって西舘さんから聞いた。
ねんねする子に 赤いべべ着せて
日傘さしかけ 宮まいり ヨイヨコ
宮にまいったら なんと言ておがむ
この子一代 息災に ヨイヨコ
ねんね ねんねと たたいてねさす
なんでねらりょう たたかれて ヨイヨコ
こんな甘い情愛に浸りながら、親にうたってもらった記憶はない。
今から思うと、養子として赤枝家に入った父は、産婦人科医三代目となる私を立派な医師に育てなければいけないという、かなり強いプレッシャーを感じていたに違いない。息子を立派な医師にすることが祖父への恩返しと考えていた。
中学のとき、既に“プチ家出”をしていた私は、とうとう耐えかねて、高二の秋、家を出た。