【9オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
柳行李に“入れ”父母はダンスホールへ
内閣府政務官 山谷えり子(1)
「ヤマもタニもあるが、シンペイするな」。父、山谷親平は母に、こうプロポーズして見合い結婚した。
占領時代の国会担当記者の娘として私は生まれた。結婚当時は窓もない4畳半一間の社員寮で昼間でも陽があたらず電灯をつけっぱなし。もちろん風呂、トイレ、台所もないところで、父は机に肩ひじついてパイプを気障(きざ)にプカリプカリとやっていたという。
若い夫婦はダンス好きで、オッパイの匂いのする私がネズミに鼻をかじられないようにと柳行李(やなぎごうり)の中に入れてふたをし、ダンスホールにしばしば踊りに出かけたという。そんなわけで当時、米ニューヨークでオープンしたばかりのジャズクラブで流行した『バードランドの子守唄』やサテンドール、ミスティは、私の幼少時代の子守唄のひとつであったらしい。
GHQ(連合国軍総司令部)本部の近くに新聞社があったため、父は、GHQの人が日本女性に非礼な態度をとっているのを目にすると、時にケンカとなり、傷だらけで帰宅したこともあったという。
また、経済安定の原則プランをもって来日したドッジと、税制の枠組みを作ったシャゥプの名を飼い犬の名にして“ドッジ”“シャウプ”としかったり、飼い慣らしていたというから、柔軟性とともに反骨心を胸に私の耳元で『ララバイ・オブ・バードランド』をハミングしていたのだろう。
私は夜泣きの激しいタフな赤ん坊だったらしく、父は睡眠不足と仕事の過労が重なって倒れ、福井県鯖江市の母の実家に身をよせることになる。しばらくの間、私のオモチャ、椅子、机を器用に手づくりしながら養生し、福井新聞社の記者となると、再び連日、部下を連れ帰って、飲めや歌えやの大騒ぎの生活に戻ったのだった。マージャンをしながら天下国家を論じる男たちの声は子守唄であった。
あのころの新聞記者たちは粋で余裕があったのだろう。時折ヒマをもてあました父の仲間たちから、私は“都々逸(どどいつ)”や奴(やつこ)さん、かっぽれ、黒田節などのお座敷芸をしこまれた。父も三味線で深川や越後獅子、端唄、長唄を弾いていた。『ゴンベさんの赤ちゃん』のメロディーで
新聞記者は人のキシャ
機械のキシャではないわいな
それが何より証拠には
記事も書くし恋もする
という替え歌もよく歌われた。
この欄を書くにあたり78歳の母に“私によく歌った子守唄は?”と聞くと「ねんねんころりよ、なども歌ったけれど、とにかく古今東西まぜこぜ。いろんな人がアナタに歌っていたわ」と破顔一笑した。
占領時代、鬱屈と、明るいエネルギーの爆発の時代の中にあって私の耳元の子守唄はさぞ“おにぎやか”だったのだろう。