【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
「諏訪家」の末っ子として生まれて
映画監督 諏訪淳(1)
ご家老様には及びもないが
せめてなりたや殿様に
これは『諏訪民謡』の一節である。徳川中期の六代諏訪藩主・諏訪忠厚(ただあつ)と二の丸に屋敷があった家老、諏訪図書(ずしょ)とその嫡子、大助とのことを揶揄してうたわれたものだ。
二の丸家老は、新田の開発や干拓、治水を積極的に行うなどのやり手であったので、病弱の藩主に代わって藩政はほとんど家老に任せられていたからであろう。
しかし、三の丸に屋敷があった家老・千野氏との間には常に『上席家老』の地位を奪い合う時代が続いた。
この両家家老の争いも後に処断がくだされた。天明三(一七八三)年、大助は切腹、大助の父・図所は永牢(ながろう)となったが、これが世で言われる「諏訪騒動」である。
現在、信州・諏訪市にある地蔵寺は、諏訪家鬼門寺として建てられ『諏訪騒動の墓』として図書や大助がまつられている。私の父母もこの寺に眠っている。
その血を受け継いだ「士族」の父、次郎のもとに「平民」であった母、貞美(さだみ)が嫁いできた。土地百五十坪(約五百平方メートル)と新築二階建ての家付き、庭付きで嫁入りした。往時の士族と平民との封建制の関係がうかがえる。二の丸諏訪家は明治以後、代々、長男は聖職とされた教師となった。
校長をしていた父は、母が持参した家の奥座敷で常に一人での食事をしていた。母親と私たち子供四人の料理と父の料理は異なり、父の方が上質のもので、末っ子であった私は嫉妬に近い感情があったことを覚えている。
父は八十四歳まで要職にあったが、いつしか『老人性痴呆』(認知症)になり、続いて母も痴呆の時を迎えた。その母と私は、小学校六年まで一緒に就眠していたが、いつも子守唄で寝ついた記憶が鮮明によみがえって来る。
ねんねんころりよ おころりよ
あっちゃん(私の呼び名)は
良い子だねんねしな
あっちゃんのお守は
どこへいった・・・
この唄は後年、『江戸の子守唄』であることを知ったが、諏訪の地でも歌われていた。
母が痴呆になってから信州に帰省したとき、私の顔を見ると、この子守唄を歌って聞かせるのである、
こんな会話のやり取りを思い起こす。
私が「お母さん、子供のころのあっちゃんを思い浮かべて歌っているの?」と聞くと、母が「そうだよ!」と答える。
「ここにそのあっちゃんが居るでしょ」と言うと、母は「居ないよ、あっちゃんは、すごくかわいかったよ」。私は自身を指して「じゃあ、この人は誰!」。母は言いきった。「お髭のどこかのおじさんだよ」・・・。
しかし、私を見ると無意識のうちに『昔のあの頃の子守唄』を口ずさむのであった。
この子守唄を痴呆の母が歌うとき、わが子を思う心情の尊厳を感ぜずにはいられなかった。
こんな思い出のある父母も他界して二十余年になる。