【9オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
家族大切にした勝さんと雷蔵さん
女優 藤村志保(4)
勝新太郎さんにとっては、家に流れる父親の三味線の音が子守唄だったかもしれない。
映画の最期の黄金期だった大映の京都撮影所を支えていた勝さんの相手役もさせていただいた。勝さんは肉親の愛情に包まれて、いたずらっ子がそのまま大きくなったという感じだった。長唄の師匠である父の杵屋勝東治さんを尊敬していて、お母さんのことも大好きだった。
勝東治先生の長唄の会のときなど、裏方を務めているお母さんに「おかあちゃん、疲れない?」と声をかける勝さんは、優しい息子だった。お母さんも勝さんの顔を見ると、目尻がとろーんと下がってしまう感じだった。
その一方、お父さんはどーんと構えていて、勝さんがいろいろあったときも「子供じゃないんだ、自分で全部責任を取るのが人間というものだ」と、びくともされなかった。
勝さんとは、スタッフも交じえご飯を食べに行ったり、(妻の中村)玉緒ちゃんも含め、家族ぐるみの付き合いをしていた。玉緒ちゃんから後で聞いたが、「家では芸談どころではなかった」とか。仕事を終え、撮影所を出てからも、勝さんのいるところはすべて「勝ワールド」で、映画のワンシーンみたいだった。
私がデビューしたのは、大映京都の演技研究所にいたとき、市川崑監督の作品『破戒』の「お志保」役に抜擢されたのがきっかけ。昭和三十七年、私が二十三歳のとき。当時としては遅いデビューだった。その「志保」を芸名にいただいたが、デビューは市川雷蔵さんの推薦だった。
大映の京都撮影所では、長谷川一夫先生たちの黄金期が終わり、『眠狂四郎』や『忍びの者』シリーズの雷蔵さんや『座頭市』の勝さんが撮影所を背負っていた。そのお二人の相手役をさせていただいたのは宝石のような思い出だ。
雷蔵さんとは、亡くなるまでの七年間、十七本の作品をご一緒して、共演の数としては一番多かった。私は雷蔵さんの前ではいつも緊張して「おはようございます」「お疲れさまでした」のあいさつをするのが精いっぱいで、プライベートの話はあまりしていない。一緒にお茶を飲んだことすらなく、仕事を終えると、真っすぐ家に帰っていた。
勝さんと雷蔵さんは対照的な二人だったが、それぞれ家族を大切にされていた。
雷蔵さんは、生みの親、そして育ての親、さらには関西歌舞伎界の長老、市川寿海先生の養子となり、子供のころに寂しい思いをしたこともあってか、奥さまやお子さまとの生活をものすごく大切にして、一生分の愛情を注がれたと思う。
勝さんの母子の関係や、雷蔵さんの家族へ注いだ愛情などは、「親子の絆」といった広い意味からすれば、濃密な「子守唄」だったのではないだろうか。
私は今、雷蔵さんや勝さんの亡くなった年齢を超え、大映もなくなってしまった。けれども今でも、昔ご一緒したときの雷蔵さん、勝さんであり、私はいつまでも年下の小娘で、お二方より年上になったという感覚はない。(談)