【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
疎開先で聴いた「ほたるこい」
女優 藤村志保(1)
ほ ほ ほたるこい
あっちの水は 苦いぞ
こっちの水は 甘いぞ
ほ ほ ほたるこい
終戦の年の昭和二十年、母は三人の子供を抱え、神奈川県愛川町に疎開していた。のどかな山里で、相模川のほとりの高台に疎開先の家はあったが、ホタルが出てくるシーズンになると、母は夕方、なにげなく川原の土手に降りていき、わらべ歌の『ほたるこい』を歌いながら、土手を行ったり来たりしていた。母が私に子守唄を歌ってくれたかどうかは覚えていないけれども、子守唄というと、その『ほたるこい』歌いながら、土手を行ったり来たりしていた。母が私に子守唄を歌ってくれたかどうかは覚えていないけれども、子守唄というと、その『ほたるこい』を思いだす。
今、考えてみても、夕涼みをしていたのか、何なのかははっきりしないが、私も年を重ねてきて、今なら何となく母の心情がわかる気がする。
それに先立つ昭和十八年、私が四歳のときに、父は南太平洋の激戦地、今のキリバス共和国の小さな島で玉砕して戦死したため、母は三人の子供を抱えた未亡人になっていたのだ。だから父のことはあまり記憶にない。
疎開してから食料に困り、母は着物を持って、毎日、外出していった。私たちは留守番をしていたが、妹が「お母さんのところに行きたい」と飛び出しそうな勢いだった。私は妹をしっかり守らないといけない責任があるので「だめよ、だめよ」って押さえた。母の着物がどんどんなくなっていったのを、子供心によく覚えている。
母が「あっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ」と歌っていたのは、子供三人を抱え、疎開先でそれなりにつらいこともあって、父もいないし、川崎に早く帰りたかったのではないか。空襲で丸焼けにはなってはいたが、自分の両親は川崎にいたから。あの単純なリズムに、母は心情をこめていたのではないかと思ったりする。
その母は三年半前、八十六歳で亡くなったが、このところしきりに母のことが思い出され、例えば“母がこうしていたから私もこうしよう”などと意識してしまう。もっと親孝行しておけばよかったとも思う。
ただ、私たちは、父を早く亡くしたものの、母のきょうだいが多かったため、叔父や叔母の愛情をたっぷり受けて育つことができた。中でも、母と特に仲のよかった叔父が、私たちのことを何かと気にかけてくれた。
叔父が母あてに出した「姉上様 私は姉上がとても好きで、尊敬して・・・ご無事を祈ります」と書かれた手紙を母が大事にしていて、今でも残っている。叔父にしてみれば、大切な姉の子供たちが、父親もいないということで、ふびんに思ってくれたのだろう。(談)