【11オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
心打たれた叔父一家の絆
女優 藤村志保(3)
母を「姉上」と慕っていた叔父が、戦争で父を早く亡くした私たちを不憫に思い、かわいがってくれた。
叔父は戦争中、学徒動員で旧満州へ行き、当時のソ連で捕虜となり、昭和二十三年に帰国した。私が小学校三年生のときだった。
帰ってきて、まずしてくれたことは、私たちの小学校へ行って、私たちのそれぞれの担任教師に会い「自分のめいやおいはどういう子ですか」と聞いて、「よろしくお願いします」とあいさつしてくれた。
夕方になり、私たちが外で遊んでいると、叔父が『ステンカ・ラージン』や『ボルガの舟歌』といったロシア民謡をよく歌ってくれた。旧ソ連の捕虜になっている間に覚えたのだろうが、子供心に“大きくて頼もしいおじさんが大きな声で歌ってくれているなあ”と感じた。
その叔父も八十三歳で亡くなった。亡くなる前の三年間、自宅で寝たきりの闘病生活を送っていた。このときに見舞いに行ったが、いつ行っても、そこには四人の孫たちの姿があった。孫たちのだれかしらが叔父の部屋に出入りしていて、そこは孫の遊び場であったり、勉強部屋であったりした。
お見舞いに行ったある日、いとこ夫婦が生後六カ月ぐらいの男の子を、叔父の横に寝かせていた。叔父は「お嫁さんが『子守りして』って置いていくんだ」と話していたが、それはいとこ夫婦の思いやりだった。
叔父は「操(私の本名)、自分はこの病気で死んでも仕方がない。でも、この家の中の子供たち、小さな命からいろいろなものをもらっているよ」と感謝していた。
孫たちの子守唄に、叔父はロシア民謡でも歌っているのかなと思って、いとこ夫婦に聞くと、「『揺籃のうた』を歌っていた」という。
揺籃のうたを、
カナリヤが歌う、よ
ねんねこ、ねんねこ、ねんねこ、よ
「『カナリヤ』の部分を四人それぞれの名前に変えて、おじいちゃんはこの十何年間、孫たちの世話をしていたのよ」と話していた。
その叔父が、医師から「ここ二、三日です」といわれたとき、四人の孫たちに最期のお別れをさせようということで、いとこ夫婦が、一番上の小学校六年生の子から順に、一人ずつ部屋に行かせ、二人きりにさせた。
しばらくすると、その子が真っ赤に泣きはらした目をして部屋から出てきた。そして次の子も・・・。
叔父の四十九日のとき、三番目の女の子に「おじいちゃまに何と言ってお別れしたの?」と聞いたら、「『百歳まで長生きしてほしい』と言ったら、『ありがとう』って強く手を握り返してくれたの」。その話を聞いて、なんて素晴らしい絆だと思った。
叔父の教えは、そのときの手のぬくもりや力強さを通して、間違いなく孫たちに伝わっている。(談)