【13オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
名もなき職人の作品にこそ宿る美
映画監督 諏訪淳(5)
東京の渋谷駅から井の頭線の電車に乗って、2つ目の駒場駅(当時)で降りた。
信州・諏訪の地から出て来たばかりで、初めての処に行くことは何か冒険的な心境であった。それも田舎でむさぼり読んだ『柳宗悦選集』の著作者ご本人・柳宗悦氏に会いに行くという無謀な計画であった。
私が20歳になろうとするころで、日本の各地に現存する民窯(みんよう)の陶磁器を小銭をためては買い、ひとりで楽しんでいた。
「民芸」の精神を説き、その実践の活動をされていた柳氏に駒場に建つ日本民芸館でお会いしたのである。
日本民芸館は「蔵」を思わせる重厚な建築で内部に足を踏み入れた瞬間、今までの思いの中で開けなかった扉がすべて開け放された気持ちになった。
そこには、民芸運動の同志である浜田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ各氏の怒濤のきらめきをもつ陶芸作品があったが・・・。
特に心に迫ってきたのは、日本・アジア・ヨーロッパの名もなき人々の作った日常品の数々であった。
柳氏は私を迎え入れ、丁寧に話を始めた。話が進むにつれて、今まで考えてもみなかった、むしろ不思議とさえ思える見識に遭遇したのである。
それは・・・「農民が無造作に日頃使っている器類、また無名な陶工たちが作ったもの、それらにこそ本当の美しさがあるのです」と雑器の美を強く訴えられた。
さらに続けて・・・「陶工自身、美が何であるのか、窯芸とは何か、そんなことを追求しているわけではないのです。ただ作ることに打ち込むだけです。打ち込むことによって、自然と器には美が湧いてきます。それは自然という子守唄が美を守ってくれるからです」
これが「無心の美」だと話された。
この話を聞くまでは、『名』の通ったいわゆる名器だけが美の世界であると思ってきただけに、私の驚きは大きかった。
私は現在、江戸時代の庶民が使っていた染め付け磁器と中国の明、清時代の日常品であった青花雑器を蒐集(しゅうしゅう)している。これらは長い年月、人々の生活に培われてきたものであるから今の暮らしの中になじむのだ。
また、30年ほど前に映画製作のロケ先で出会った農家での男性用小便器の美しさが忘れられない。全体に唐草模様が施され、円筒の形状をした染め付け磁器であった。後日、再び見に来ようと思いながらその場を去った。その後、水洗にかわり、あの便器も捨てられてしまったと聞かされた。残念な思いである。
こうした無名な陶工たちが作った雑器には柳氏が言う「自然という子守唄に守られた美」が内包されているのではないか。子守唄の子供や人に与える力を強く知っての言葉が、今になってうなずける。
人々の生活に『無心の美』が必要な時代である。それは、子守唄の心でもあるからだ。