【11オピニオン面】
唄いつぐ−親から子へ
死装束を用意していた母
女優 藤村志保(2)
母と一緒に暮らしていたが、亡くなる一年ぐらい前から、だんだん体が弱ってきて、一人で風呂に入れなくなったため、私が一緒に入って体を洗ってあげた。
そのとき、ずいぶん細くなってしまった母の姿を見ているうちに“この体から私が生まれてきたのだ”“この垂れ下がってしまった乳房を私たち子供が吸って大きくなったのだ”という感慨がわいてきた。
亡くなる一カ月前にはだいぶ具合が悪くなっていたが、ある日、母はベッドの上で泣きべそをかいて「お母さんのところに行きたい」。こう私に言った。
八十六歳の母のその口調は、戦争中に疎開していたころ、食料品を買いに行くため母が外出した際、幼い私の妹が「お母さんのところに行きたい」と言ったときとそっくりで驚いた。“「お母さん」って私の祖母のこと?”と、祖母の顔が瞬間的に浮かんだ。人間は最期は「子供に返る」というけれども、本当にそうなのだと思った。妹の口調に似ていたのは“血筋”なのだろうか。
この「唄いつぐ」の連載で、詩人の松永伍一先生が、老いたお母さまに恩返しとして「母守唄」を歌ったと書かれていた。私も、母が亡くなる前にそのお話を知っていたら、母が疎開先で歌っていた『ほたるこい』を枕元で歌ってあげられたのに、と残念だ。
また、母は樋口一葉が好きで、よく一葉の作品の話をしていたから、
廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き・・・
と『たけくらべ』を読み聞かせてあげられたとも思う。
母が病みがちになって外出もままならなくなってから、「みいちゃん(私の本名は操)、あの帯をもう締めていいわよ」とか「あの着物を着ていいわよ」と言われたので、母のタンスを開けるようになった。“この着物、私にはまだ地味かな”なんてタンスの中を見ているとき、下の方に、母が自分の死装束を用意しているのに気がついた。その畳紙には「死装束 旅立ちの日のために」と書かれ、日付も入っていて、母が六十五歳のときのものだった。
それで、はっとしながらも、“母が亡くなるときはこれを着せればいい”と思って、実際に息を引き取った直後、急いで自宅から取ってきて着せた。昔の人で、二十六歳のときから未亡人として、気持ちをぴしっとさせて生きてきた人だから、もしものときのも“自分できちんと・・・”という心構えで身支度をしていたのだろう。日ごろの母の言動からもそれは感じていた。
私も一昨年、六十五歳になったときに呉服屋さんに死装束を「作って」と頼んだ。「はい」と言われた。だが、それきりで、まだできてこない。(談)