2月10日(月)晴れ
今日は紀伊国屋書店にて青木新門さんの「その後の納棺夫日記」のトークとサイン会。
相手が私というのでは格式を無くすのでは、とちょっと緊張。しかし「死」という実感が鈍感になってしまった現代この本が投げかける意義は大きいのではないだろうか。
私はといえば随分沢山の死に際にあっているが、何故か私の中では誰も死んでいないという思がしてならない。詩人の松永伍一さんの死に際にも一晩仲の良い方達と見送ったが、何故か今も私の中では松永さんはそのままに生きている。寧ろ不思議な感覚だ。要はどう対峙しているか、ということと関係があるかも知れない。
終わって法蔵館の編集者のかたと三人で乾杯。帰りは市川の駅が雪の影響でまだ大混雑、結局1時間タクシーを待って、凍りついて帰宅。
2月11日(火)雪のちくもり
昼に また雪がちらつき始めた。
「絶対、外にでては駄目よ」姉から電話。昨年雪で滑って手を折って大変な思いをした経験でみんなに注意を促している。
たまの休みにまずは掃除と身体を休めることをしなければならない。オリンピックのニュースを見る。この報道の仕方は間違っている。騒ぎすぎは集中して少数の人に行くし、日本だけが参加しているのではない、世界の一流の競技をきちんと報道できないメディアに公平さがあるとは到底思えない。テレビの報道の罪はおおきいのではないだろうか。
2月12日(水)晴れ
午前中、代々木オリンピック村跡地の国立青少年教育振興機構で田中理事長と肥田美代子さんと食事。絵本の読み聞かせをしていらっしゃる肥田先生は静かな優しいお人柄だ。浮かれていい気になってしゃべっていた自分が恥ずかしい。
午後に清水さん来訪。蜂須賀さん「遠野」の映画を撮影するというので来訪。なんやかやと来客がつづいている中、ちょつとした事件が起きて大騒ぎ。富山にサプライズで出ていただく事になった露崎俊介さんのマネージャーが雲隠れ。その対応に大わらわ。
結局露崎さんから自分一人でも行きます、という電話があり、やっと一安心。
2月13日(木)晴れ
ららばい通信の送付で大わらわ。原稿書きをその中でしていたが、子守唄の資料がたまりぬいている。松永伍一先生の7回忌の企画がきまり、その企画書から具体的な計画になった。時間がないので急いでしなくてはならない。
新門さんから「ともなり(共鳴)」これが子守唄協会の指針であるというヒントと助言を頂き、方針が決まった。残念ながら松永伍一先生という存在を知る人が少なく、この点がとても気になっていた。女性が覚醒しなければならないという松永先生の言葉を思い出して、湯川れい子さん、細川佳代子さんに第一部で話していただきたいと依頼をさせていただいた。
2月14日(金)雪
東京で雪の予報が出るとうれしかったのはこどもの頃、雪の予報が出ていたが明日は富山に行くので不安がよぎる。姉の所に泊めてもらうことにして家をでた。
昼すぎまでは小やみで、夜中には雨になると言う予報、仕事をしていてもなんだか落ち着かない。夕刻姉の家に行きテレビなど観ていたが夜になって段々ひどくなってきた。
マンションの上からは町が一望され、なんだか半端な雪ではなさそうな気がしてきた。
みるみる白くなったが先週のこともある。ならば市川ではまず東京へは出てこられない。
それにしてもたいした天気予報もやつていなかつた。孫が沖縄から帰るとあってその方が心配だった。オリンピックを見る。これつて日本だけじゃないのに、どうして世界一流の競技が放映されないのか、姑息だよね。
2月15日(土)雪
朝方小やみになったが何と何と100年ぶりの大雪という。
2時の上越新幹線に乗れるだろうか,昼前に姉の家をでてほうほうの体で東京駅に着いたが、越後湯沢経由は運休、岩倉さんが走ずりまわつて結局米原経由で富山に入ることにする。
何とか、みんなと一緒なのでわあわあいっての旅中となったが、これ一人だったらとてもとても耐えられない。
結局着いたのは予定より二時間遅れの、七時半、長田暁二、露崎俊介、原荘介、清水睦夫、池田宏里 岩倉さん、わたし、わかくないみんなはくたくたにになって富山着。
新門さん、富山新聞代表達と合流。そのまま食事、インタビューの時間もなかった。
食事は長田さんの話が面白くて、笑いが止まらなかった。かえりに仏蘭西やによる。忙しくても富山子守唄フェスタには必ず来てくださる。
「ドーミーイン」は定宿。一時に風呂にいき、何故かホッとする。
2月16日(日)晴れ
こちらは快晴、東京と逆の良い天気。
15年目、いつものとやま子守唄フェスタ・・・多くの人が愉しみに待っていてくださる。
早くに行列ができていて、本日のテーマ「仏教音楽と子守唄」は幕を開けた。露崎さんのサプライズがすばらしい。韓流など目じゃない。この会はまずは大成功だった。
終わって越後湯沢経由で帰京。結局2時間半遅れて到着した。