2月20日(月)晴れ
寒さが少しゆるんだ感じ。
所沢から山田直子さんと埼玉県の民生委員の方が「子守唄の会」の打ち合わせにお見えになった。直子さんとはお久しぶり、積もる話しに華が咲いた。直子さんの母上は谷崎潤一郎の細雪のモデルとなった蒔岡家の縁者、今月の文学界に谷崎昭夫さんがこのあたりの事を書いており、本を置いていってくださった。
2月21日(火)曇
朝になって静岡の高木桂藏先生が自転車に乗っていて自動車と接触事故を起こしたという連絡が入った。静岡の会は23日、明後日のことで、急きょ代役は私がする事になった。
寒い中を自転車で学校まで走った先生の姿が目に浮かぶ。
「ことば学院」、先生が学長を務める外国人のための言語学校は多種の國から学生がきているのに、どこの国の学生達も掃除をしないという。清潔な國からというわけではないのだろうが、先ず、掃除に対しての意識が薄い。かといって、日本もそれに近くなってきた。
子供達や若い人は身の回りの清潔さに鈍感になっているせいだろう。朝の学校の周りの掃除は先生自らがなさっていると伺った。「学生にいくら言ったとしても無駄と知りましたので」とおっしゃつていらした。早めに学校に行かれようとしたのではないだろうか。
嘆かわしい現実の中で先生は事故に遭われ大腿骨骨折ということになったとしたら本当にお気の毒なことだ。
作曲家の三平典子さん、今日は山口栄さんの歌の会にわざわざ来てくださりでご一緒にご覧下さった。私はウクレレの練習日、清水ウクレレ協会理事長の授業をうけ、終わってみんなで合流して我が家で宴。
2月22日(水)晴れ
産経新聞、長谷川ホールディングスとの「子守唄の募集」のうちあわせをした。
何処も不況の中での企画なので、実現までには難関がまっている。
夕刻突然孫の櫻子が来訪、うれしくて思わずとびついてしまった。
新体操の部活を高校になって続けるか、彼女の悩みも大きい。しっかりしているので私は私の意見を述べて夕食を一緒して帰宅させた。
2月23日(木)雨
静岡まで朝一番に出掛ける。
「子守唄」を静岡で広めるための最初の集まり。
二時間ほど話して歌って成果は大きかったと思うが、肝心の高木先生の不在でどう続けていくかはこれからの課題となった。
雨の中、多くの方が来てくださって成功の部類だ。
2月24日(金)晴れ
事業展開を子守唄協会でしたいというひとがきて、さりとはて日本子守唄協会がなにをしているかも知らないので、旅にお連れすることにして別れた。職を探している人は多い。物を売ったり、組織に入る仕事の限界は来ているのでは無いだろうか。
日本は先が暗い。
2月25日(土)晴れ
新幹線で越後湯沢まで、特急はくたかに乗り換えて富山まで。
冬の風物詩となった『とやま子守唄フェスタ』の為に毎年この時期富山入りする。
雪は全く無い富山に降り立ち、七時の取材まで時間があるので木下晋さんと青木新門さんと一緒にお茶を飲む、と言ってもお茶をのむ場所がない。ホテルもそれらしき場所も六時で閉店、仕方ないので富山新聞社の玄関に居たら、中野さんがわざわざ応接間に案内してくださり、ホッとした。何となく集まる場所がなくなったという話になった。
そう言えば目的があってお茶を飲んだり、食事をするが、この何となく入ってみる、という時間を私たち自身が作らなくなっているのかも知れない。
居場所が何処にでも出来るという生活習慣が欠けてきたのだろう。
午後七時、明日の出演者のインタビューがあって夕食会、宮本代表を囲んで懇談のあと、新門さんの行きつけの「仏蘭西や」までいく。常田富士男夫妻、李広宏さん、富山新聞北川さん、高橋史朗さん、わたし、木下晋さん、楽しい話に華が咲いた。
お会計は青木さん、散財をおかけした。
ホテルに帰って温泉に入って寝る。
2月26日(日)時々雪のち晴れ
子守唄フェスタ本番。
850名の参加者で会場はぎっしり。当日の模様はHPで観て欲しい。
新聞社上げての文化事業も今年で十三年がたつ。宮本代表が舞台から「子守唄フェスタは永遠です」というメーセージを発して下さった。
今年もこのフェスタで春が来る。
終わって青木新門さんの車で木下さんと金沢まで。七時から砂塚局長、端さん、下田さんと会食をしながら今年の催事の相談をする。