12月3日(日)晴れ
台東区のミレニアムホールにて「我が子へのララバイ」今年で二回目。
満員の会場にお母さんが子連れというのがうれしい。中には若いご夫婦が仲良く肩を並べて座っていてくださる。第一部では今の虐めの解決策をより具体的に藤村志保さんと上野寛永寺の浦井正明執事長さんのお話で。第二部では沢山の子守唄をバラィティに富んで、稲村なお子さん、綾乃ひびきさん、原荘介さんに唄っていただいた。最後は今年3回行った子守唄教室の皆さんに壇上で一緒に子守唄を唄っていただきました。
芸達者な可愛いお子さんに場内中が食われた感じ、和気あいあいの子守唄の会でした。
アンケートの何とうれしかったことか。子守唄というとお年寄りといったイメージが強かったのが、こうして多くの若い人の参加にほっとすると同時、まだこの環境は作れると確信した。終わってスタジオにて打ち上げ、盛り上がりました。
山谷えり子さん、岡山井原の瀧本市長さんからうれしい祝電を頂きました。
12月4日(月)晴れ
昨日の打ち上げのためか、二日酔い、おまけに風邪気味、午後「桜チャンネル」に水嶋社長を訪ねる。徳永理事も一緒。
渋谷の町も暮れといった感じはまったく無い。ネットの上で何でも番組にするという計画を水嶋社長は考えている。しかし、そうなればなお温もりが人の心に必要になってくるのではないだろうか。時代は人をますます億劫な出不精にしているのも事実。情報化が進めば進むほどそれは加速されていくようにも思える。しかし、この電波の時代は確実に進歩し続ける。
鍋焼きうどんを食べて早々に休むことにする。蕎麦屋の叔父さん、実はアルツハイマーとか、孫が食事をしている側で「何処に住んでいるのか、行ったことが無いから分からない」などといっている。おばさんに「あんたもそこから通っていたでしょう」と言い返されていたが、住んでいた記憶がなくなるというのは実はぞっとすることなのだ。
年の瀬、今年の暮れもまもなく本番を迎える。
12月5日(火)晴れ
午前中、いただきものの御礼の品物を買いにいく。
今日は寒い、といっても「おお、寒い」というほどの寒さではないが。
午後光恵ちゃん来る。私の秘書時代から彼女が入ってくるとぱっと明るい空気が流れる。
渋谷の工藤さん来訪、渋谷の駅前のサロンでこもり歌をやろうかなどと話す。千葉の八街に大掛かりの自然の街を作るそうだ。若いということの何というすばらしさ。はぴはぴランド運動だといっていた。
今日は原荘介さんの子守唄教室の日、大分県が今回のテーマ。
「隣家人と我家人」の子守唄の不思議さについて歓談し、明日の「聲明と子守唄」の打ち合わせをする。原さん泊まる。
12月6日(水)晴れ
10時車にて池上本門寺まで「子守唄と聲明」というイベントの企画公演の日、
11時から打ち合わせ、リハ。子守唄と聲明の共通の役目と効用を、早水日秀さんを交えて話す。中国の「揺籃曲」程農化さんの二胡も加わり、会はゆったりと進んでいった。
共同通信、朝田さんも、暮れに出る子守唄のゲラをもって観にきてくださった。そういえば何と白都真理ちゃんが観にきてくれた。何十年ぶりだろう。女優の最初の仕事を一緒したので思い出は深い。ひょいと昔の知り合いが顔を出すというのは縁というものだろう。帰り、酒井日慈貫主様に今日の会を誉められた。
今日は姪の長女未稀の卵巣脳腫の手術の日、なんといってもまだ15歳。心配したが無事終了とか。池上の帰りに報告を受けた。
12月7日(木)晴れ
今の時代だからこそお寺の布教運動に子守唄をと藤村志保さんからお電話を頂いた。
昨日の子守唄と聲明の会の反響が大きいのにびっくりしている。
11時美容院へ。いつもの師走より暇だとこぼしていた。新年を迎えるに少しは着飾ってというメリハリがなくなってきているのでは。
14時ダイヤモンド社冨田部長来訪。ついでオーディブルインク日本支社進藤代表、パムリンクの松木代表来訪、打ち合わせをする。
17時藤原書店へ、藤原社長にご馳走になる。藤原書店に行くとなんだか知的な香りがする。ノーベル文学賞受賞「雪」を買う。
12月8日(金)曇り
この2,3日どんよりとした曇り空。やっと本格的な冬となるのかも。
午前中、堀合法律事務所へ。午後来年から始まる「子守唄紀行」のゲラ、グラビアの校正が届いた。「正論」という雑誌の力を考えれば、身が引き締まる思いだ。子守唄の持つ民族の力かもしれない。明日は父の一周忌、二次会となる事務所の整理をして眠る。
12月9日(土)雨
一年前の今日はまだ父が生きていた。その父が今年はいない。
11時より浅草光照院にて法要。父は本当に浄土にいっているのだろうか。
会食は柳橋の「亀清楼」にて。窓から隅田川の景色が望める席、女将のご配慮で壁には平山郁夫画伯の釈迦像が掛けられていた。
堅苦しくなくという、いつもの父の言葉どおり、和やかな会となった。
「とうちゃんは江戸っ子で半分も聞かないうちに、あいいよ、といってしまう」、という話では、補足として、内容も聞かないうちに、英語も知らないで通訳を引き受けたという話に皆大笑いした。ひ孫を見られてあの世にいかれたことの安心感は強い。
二次会は小名浜からきてくださった母の兄弟、親戚と。酒がはいり、思い出話は尽きない。若い日の輝かしい時代はもはや二度と戻ることは無いが誰かが残る順に語りついでくれるのだろう。
私のほうも久しぶりに娘三人が集合。わいわいがやがやという夕食となった。
雨はふりつづいていた。
12月10日(日)晴れ
きらきらするまぶしい陽射し。2時、青梅まで出かける。
立川で青梅線に乗り換え、65年前、この地名は基地の赤線として有名だった。電車の窓からその片鱗も無くなった街をぼんやりながめていた。どんな土地にも人の歴史というのが眠っているものだと痛感する。
原さんに頼まれた会に出る。とにかく寒い。子守唄の旅の話をする。
「そういえば小泉八雲が雪女の取材を最初にしたのは青梅でした」と教えてもらった。
連結が悪いと浅草橋からは2時間あまりかかる。ちょっとした小旅行、北風が吹いて本当に寒い夜だった。