メッセージ・ポエム
詩:西舘好子(NPO法人 日本子守唄協会 理事長)
春風のように あなたを包み
夏の水辺に あたなを泳がせ
秋の月の中で あなたと遊び
冬の陽を背に あなたと温もりたい
あなたが生まれた その日から
あなたが笑った 微笑みから
あなたが泣いた 涙から
私に芽生えた 命への祈りが
育てよう私の 大切な命
みつめよう私の 大切な命
慈しもう私の 大切な命
唄い続けよう私の こころの子守唄
私の歌を あなたに届けよう
私の声を あなたに伝えよう
あなたといっしょに 泣いて笑って
あなたの命と 寄り添って生きよう
1.子守唄ってなあに
子守唄は子育ての手段として、赤ちゃんを眠らせるためにうたわれる唄の事です。
大きく分けると「眠らせ唄」と「遊び唄」に分けられます。
眠らせ唄は読んで字のごとく赤ちゃんを心地よく眠らせるためにうたわれます。
遊び唄は、「あわわ」 「おつむてんてん」 「かいぐり かいぐり とっとのめ」 「上がり目 下がり目 ぐるりとまわして猫の目」 「にぎにぎ」 「いないいないばぁあ」
などと五感を使って赤ちゃんを機嫌よく遊ばせるための唄です。これも眠りに誘い込む効用があります。
眠らせ唄も遊び唄も、伝承された古いものから即興のオリジナルのものまで数限りなくあり、うたわれる対象が赤ちゃんであり、うたうのが大人や子どもをみる人たちであれば、唄われるのはどんな詩や曲であろうが、子守唄といえます。
2.誰がうたうのですか
誰でもうたえます。
家庭の中で両親には是非にもうたっていただきたいと思います。
子供が育っていく過程で、その家庭のあり方は大変重要な意味を持ちます。
直接育児に係わり子どもに一番影響を与えるのは育ててくれる両親である、というのは当たり前といえば当たり前です。
愛情深く育てられれば、安眠して、明るい表情や表現にもなります。子どもが愛されて育つための鍵は親が握っているといっても過言ではありません。
親の心持と態度が子に影響するとなれば、誰も無関心ではいられないはずです。難しい唄をうたうわけではありません。ニコニコして眼を見て、子にあわせてうたってあげてほしいのです。生まれた瞬間からお母さんはわが子専属のシンガーソングライターということでしょうか。万人のためとはいきませんが、わが子にとっては唯一の歌手はお母さん、凝視される母親は子どもにとって大スターといえます。
いつでも見ていたい、触っていたい唯一の存在が、お母さんなのです。
うたうのが母親であって欲しいということが第一条件ですが、現代では、母子家庭で母親がいつもいるとは限らないときもありますし、父子家庭ということも考えられます。不幸にして、双方の親が不在ということもありえます。再婚や離婚というばあいもあり、家族の形は千差万別、多種多様で、家族の形はさまざまです。そこでは子守唄は要らないのでしょうか、そんなことはありません。赤ちゃんに係わる大人たちの全部に子守唄をうたう義務と資格があるのです。
3.どんなふうにうたったらよいのですか
どんなふうでも構いません。
しかし、言葉の抑揚や発音の楽しさがあれば、赤ちゃんよりうたうお母さんの方が楽しくなるのではないでしょうか。子守唄をむずかしく考えないで下さい。
生活を楽しむ、毎日を明るく考える。幸福も不幸も人生の中ではまったく同じ位置にあるという覚悟が、子を持つ親には大切です。いちいち浮き沈みの激しい感情にとらわれていては、とても子育てなど出来はしません。ドンとかまえて、楽観的になるのが子育て上手というものです。
自分の子がマニュアルどおりでないのでオカシイと思うか、我が子は我が子と開き直るかで、子守唄のうたい方も変わってきます。
所詮、子育ての満点は50点。なぜならどうすっ転んでも子どもの半分は父親の遺伝子に動かされているのですから、もともと母親が自分でコントロールできない要素なのです。
子育てがしめしめうまくいったと思える点数は50点で、それが満点ということを理解しておけば要らぬ期待や法外な夢をかけることもないでしょう。子守唄は楽観的な母親から口を突いて出てきた言葉を勝手に唄うたえばいいものなのです。
いってみればうたう素材は山ほど身近に転がっているのではないでしょうか。
つらいこと嬉しかったこと。姑への愚痴や、夫への苦情、心の憂さの吐き出しをそっとしてみられるのも子守唄のいいところです。
私の知っている娘さんは俳句を子守唄にしています。
「逆らわず、にっこり笑って従わず」これって姑対策のバイブルみたいなものです。
帰りの遅い亭主を、帰ってきたらとっちめてやろうと待ち構えているときには、赤ちゃんと一緒に苦情を並べ立てていると気が晴れます。
4.子守唄の特徴は
子守唄の研究にそのほとんどを費やしていらした詩人の松永伍一さんは、お母さんの「即興詩」「つぶやき」「独り言」が子守唄だといいます。
「1」古来子守唄には正しいとされた形式も様式も存在しません。
今うたっているものの多くは伝承者から採譜したり、その土地に古くからうたい継がれていたもの、その家にうたい継がれたものなどです。また解りやすく編曲したものもあります。
「2」 暮らしの様子や心情、感情、時には愚痴や苦情といったものまで、唄の素材はまったく自由です。
「3」 即興ですから、いつでも何処でも作り、うたうことが出来ます。
「4」 繰り返し繰り返しうたって疲れないものです。
「5」 多数の子を相手にしているというより、あくまでも「我が子」のために、うたうことが基本です。
感情を正直に吐露していくものが子守唄です。
なんの手本も無いのに子守唄をうたえることを、不思議に思うお母さんが居ますが、自分でも知らないうちに、唄が口の端にのって出てくるのは、伝承の上にのっとって体が憶えているからなのです。
作詞が難しいということはありませんし、曲が飛びぬけて特殊というわけでもありません。眠らせることが目的ですから、ゆったりとして単純なリズムが通例であり、騒々しいものやテンポの速いものは子守唄には合わないようです。子守唄の最たる特徴は、
「100人のお母さんには100の子守唄がある」
というものです。
5.子どもはどんな反応をするのでしょうか
実は赤ちゃんは、子守唄の意味はさっぱりわかりません。
しかし、おなかの中に居るときに、一番身近な音はお母さんの呼吸や心臓の音です。またゴロゴロなる腸の音や大動脈の音をきいて大きくなっているのです。
良くおなかの中で聞こえるのは波の音、海の音といわれますが、確かにざぁざぁという心臓の音は潮騒の音に近いかもしれません。その中で十月十日の間を送り、育っていくのです。その音は赤ちゃんの故郷の音です。
言葉を知らない赤ちゃんは、生まれてすぐにお母さんの声と対面し、安心します。
今まで居たおなかの中と外界との唯一の接点は、「お母さんの声」です。
うたう唄ではなく、お母さんの声があれば安心するのです。
お母さんが「命の讃歌」として子守唄をうたおうが、愚痴や悩みを唄にしようが、赤ちゃんにはあまり関係がありません。赤ちゃんは、自分にむかってお母さんがお母さんの声で話し掛け、うたってくれる事を喜び、お母さんとの一体感を強めていくのです。
6.子守唄は大切ですか
もちろん、今もっとも大切です。
子育ては、理屈や理論では無いからです。
「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。
幼い頃に無意識の中で覚えて癖になったことは、百歳までも直らない。
始めに覚えたことは子どもの心を占領していて、後でいくらちがうことを教えても駄目、といった意味に使われます。
ブラジルには「曲がった苗木は生涯まっすぐにはならない」ということわざがあると聞きます。日本ばかりではなく、世界中の真理のようです。
大きくなれば自分の意志や考えで判断や区別がつくものは多くあります。勉学をしたり指導を受けたりする中で人格が培われていくこともあるでしょう。
しかし、可愛がられて育った子は、その記憶を頭脳ではなく、体で覚えているということはないでしょうか。
「心」というのは正直なもので、素直な人はその素直さを、正直な人はその正直さを、ごく当たり前に発揮できます。無意識のうちに大切な宝物が顔を出すからです。
「愛」というものが変わらずあるとすれば、それを受けるほうもさることながら、愛をあげたいほうが何の見返りも求めない無償の美しさで輝いていくのかもしれません。
赤ちゃんへの親の愛は「わが身と代えても良い」というほど強烈なものです。
自分の命より大切なものを得た人は幸せです。
その幸せは、そのままその子の赤ちゃん時代に植え付けられるものなのです。
惜しげなくたっぷりと赤ちゃんを可愛がる中で、親の方もあまり意識などしないで子守唄をうたうから、きっと大切にその子の心の中に静に眠ることになるのでしょう。
女性たちの持つ宝石箱の中にしまわれた宝石のように、出番がくるまで保管されるのが、子守唄なのです。
7.命とどうかかわっているのですか
人間の祖先はネアンデルタール人だと、教わったことはありませんか。あのゴリラのような猿人類の絵は、一度はみんな見いているでしょう。
本当は20万年前、アフリカの新人がその祖先だともいわれています。
地球に誕生した人類は、その時何を見たでしょう。
まだ定まっていない大地、地鳴りや地震。地は裂け割れ、山は爆発し、水は氾濫して、海や川を作るために繰り返し激流となります。寒暖定まらない中で、人類は、獣と同じに右往左往していたことでしょう。
人間もあらゆる生物と同じように、安全に暮らせる場所を見つけるために移動を繰り返していました。その中で本能とも言える奇跡を見つけました。
「命」です。このあたりはもはや神の分野です。
神は男を作り、女を作り、男女の間に子ができ、やがて好きという感情が芽生え、男女は命を守ることをするようになります。
命は周囲の刺激をとりいれる能力を持っています。刺激によって発達し、脳を発達させ進歩し続けます。そして、命の誕生は子守唄を生み出しました。
子守唄は、命と最初から関っているものなのです。
8.忙しくて子守唄をうたうなど考えられないのですが
忙しいというのは現実です。
母親の仕事というのは、終わるということはありません。
どこかで一区切りつけて自分に立ち戻る、という余裕もありません。
何も考えなければ、忙殺され流されていくのが日常、ということになります。
子どもは品物ではありませんし、ましてやペットでもありません。
暮しの周りを見てみると、スイッチを入れればご飯が炊け、洗濯機がまわり、冷暖房が利くという文明があるのに、子どもだけはどうしてこうも手がかかるのでしょうか。
答えは簡単、人間だからです。人間というものは、大きくなるのに時間と手がかかるという決まりがあります。どんなに文明が進んでも、妊娠から出産までの日数が半分で済むとか、一年で五歳の子にまで成長できるということは無いのです。
気が遠くなるような長い時間が育児には必要なのです。となると、その間、自発的に楽しむ方向に持っていく知恵と努力が必要のようです。
子守唄を憂さ晴らしに利用してください。子どものためにうたうのではなく、自分のために慰めとしていただきたいのです。
忙しさは確かに心の余裕を失わせます。悪意やひがみを抱き、心がゆがんでしまうのも、最大の原因は忙しさにあります。
「誰もこの忙しさをわかってくれない」と絶望的な気持ちになってしまうと、逃げ道がまったくなくなってしまいます。せめて、自分のために使う時間を、自身の手で作り自滅ししないようにしましょう。
9.子どもの数と子守唄は関係がありますか
昔は「足らず 余らず 子三人」といわれたそうです。
三人がちょうど良いあんばいということでしょうか。
一人っ子より二人がいい、ついでに三人いればもっといいと言う理由はどこにあるのでしょう。確かに一人っ子というのは可愛がられて育ちますから、子守唄をきかされるチャンスは多いかもしれません。しかし、構われすぎて、親の勝手やエゴや感情を全面的に受けてしまう場合が生じます。二人目の子は、親は育児には少し慣れてきますが、子守唄をたっぷり聴かせてもらうということはあまり無いようです。次男坊、次女の子には規格はずれが多く、その原因は親の愛情の分量にもあるのかな、という偏見を感じています。かくいう私が次女というせいもありますが。
三番目の子になると、もう大抵は母親べったりです。母親の方も、これで育児も終わりという寂しさを感じるのか、溢れるほどの愛情のシャワーを注ぎ、子どもはそれを独占します。
子守唄はそれぞれの子どもの性格によって、または母親の心のありようによって、経済状態によっても変化してきます。
三人並べて母親が添い寝して子守唄をうたうという図は、もはや想像がつきません。やはり、小さい順にまだ言葉などいえないときにうたわれるのでしょう。
しかし、今では三人産むというのも至難の技です。便利に何もかもが合理的になったとしても、子ども一人を生むのがやっとという時代です。昔よりも、暮しは貧しいのかもしれません。
10.子守唄はなぜ現在必要なのですか
親子のありようが問われているからです。
とにかく大変な世の中です。
殺伐とした毎日、殺人や凶悪事件や虐待の報に触れるたび、何が原因かを考えます。
実は、その原因の多くは親子のありようにかかっているようです。
自分の命が大切なように、人の命も大切です。
命の大切さを知るための基本は子育てのなかにあり、さまざまな恐ろしい事件は親子の関係に起因しているといっても過言ではありません。子育てこそ実は伝承文化なのです。長い年月の中で、人の経験と歴史を持って受け継がれてきたものだということを、今のわたしたちは忘れています。
誰もが父と母から産まれてきました。その父と母も、お互いの父と母から産まれてきました。
遺伝学の先生からお伺いしたところ、一人の人の中にある遺伝子は1600人分だというではありませんか。
なんだか、一人で生まれてきたとは思わないまでも、私の人生は私自信の力で決められると考えていたことが、ずいぶんな思い上がりであったという気がしてきます。
現在、私たちは命に関してどんな敬虔な気持ちを持っているのか、はなはだ心細い気がします。たとえば、死生観といったものへの感覚は鈍いかもしれません。
「死」が日常の暮しの中にあるということもありません。
老いる、病む、死すといった、人間の一生について回る避けられない事実をしっかり見る場がなくなってきています。それらは家庭の中に持ち込むべきではないと考える風潮さえあります。
老いても、病んでも、死にあたっても、専門の方々の施設や手を煩わせる中で日常は営まれているのです。
病気で寝ている老人を見るのは、子供時代の私にとってとてもこわいことでした。
子ども時代には死はもっと子供時代には恐ろしかった記憶もありませんか。
しかし、人はやがて老いて死んでいくものだと知ったとき、人生の本当の姿と出会ったようで、妙に感動し、大人になったと感じたものです。
老人は、小さな孫に「子守唄」や「わらべうた」を良くうたってくれた時代があったはずです。
その人との別れに当たり、無機質な病院の冷たく硬いベッドは、あまりに儀礼的過ぎませんか。
死は、子どもにとって大きな意味を持ちます。人がやがては死ぬものであり、人生は幕が下りるものなのだと実感したとき、取り返しのつかない事もあるのだと知ることができます。泣く以外に心を落ち着かせてくれるものもありません。病や死に立会うことは、子どもにとっての人生の教科書の一ページかもしれません。生きることの深さに出会う入口のはずです。
自分のためにうたってくれた唄を記憶していることは、子どもにとって、生涯の宝物となるはずです。
11. 子守唄をうたえば良い子が育つのですか
「はい」育ちます。
うたいうたわれる、という関係が親子にとって最大のコミュニケーションの良薬となります。
赤あかちゃんにとっては、子守唄をきくことは脳の活性化を助け、情緒を落ち着かせる効能があります。
そして、うたうお母さんの方は、うたうことでこれまた、こころを落ち着かせ、心の浄化を計ることができるのです。双方にとって良いことが「子守唄」には働くのです。
しかし、お尻を引っぱたいたりつねったりしながら、怒りのままに子守唄をうたったとしたら、それは「悪魔の唄」と同じになってしまいます。
又、暗い気持ちのまま、なんでもいいからうたうというのもよくありません。
もっと悪いのは、プロの歌手並みに、上手にうたおうと野心をもつことです。特にコーラスグループにいて勉強したという人がうたう子守唄は赤ちゃんの心に届きません。自分のためにうたうからです。
まず、無心になってください。自分の声でいつまでもうたっていられるという自然体が、良い子をそだてていくのです。心のままにうたううたは、確実に赤ちゃんに受け止められるものなのです。
12. 同じことを繰り返すのは何か意味があるのでしょうか
ねんねんよ ねんねんよ…おころりよ おころりよ…
などは誰でもがうたえますし、繰り返し繰り返し使われているものです。そして、その繰り返しをうたうだけでも立派な子守唄です。
お母さんの愛のリズムだからです。
この、ねんねんということばの語源は、推測するにお念仏の、念念…からきているようです。こじつければ、眠ることを念じているところからうたわれはじめたのでしょうか。つまり子守唄は、お念仏とも共通点を持っていることになります。
おころりよも、一説には「ころり」と一瞬に眠ってほしいという願いの表れからきているというのです。
ねんねん おころり おころりよ
は、人間の一生のままさまざまな願い事の末にはころりと眠るように死んでいきたいという人間の一生の願望があり、それを繰り返し繰り返し、赤ちゃんにうたっているとなるのでしょうか。まさに[刷り込み]の極地というわけです。
同じリズムで繰り返されていると、それはまるで海の波のように悠久の心地よさを与えてくれます。この繰り返しがあるからこそ、赤ちゃんはだんだんに目を細めていくのです。
ねんねんよおころりよ おうちのりえちゃんねんねんよ
といった簡単明瞭なことの繰り返しが実は大きな意味をもち、言葉を話し始めれば真っ先に自分の名前だけは言えるようになるのです。お母さんのうたの中でしっかり認識と訓練をしているということです。
もっともこの繰り返しの言葉は土地によってちがっています。
13.子守唄は永遠の故郷です
なぜならば最近になって、赤ちゃんはおなかにいるときのことを覚えているということが、専門家の研究で立証されました。
もっとも身近に感じる音は、母親の脈拍、呼吸の音、ゴロゴロとなる腸の音。それらは母親の音であると同時に、自分自身と繋がっている音で、実に心地よいものなのです。
又、お母さんのおなかを通して外の音がどう入ってくるかという実験では、七か月までの反応は乏しいものの八か月から九か月では胎児の反応は急速に発達し、妊娠末期には、外からの音は自分の耳で聞き、独自の動きや反応を見せるということが解ってきました。
この時期音楽を聴くと、母親が好きな曲の場合の胎児の脈拍は活性化するのです。
いわば母親の精神状態を受け継いで子供は育っているということです。
おなかの中で聞く音はひとり一人まちまちで、その子にとっての永遠の故郷の風景です。誰もが同じ音を聞いているということはないのです。外国ではどんな風に捉えているのでしょう。
14.外国にも子守唄があるのでしょうか
アメリカでは子守唄をLulubyといっています。韓国ではチャジャン歌。中国では揺籃曲〔ヤオランチィ〕といっています。まさにゆりかごの意味です。ここでも、ゆりかごに揺られて、静かに眠りなさいというリズムで唄われています。リズムは四分の三拍子、八分の六拍子で行ったものが多いようです。
月は明るく 風は静か
よしよし いい子
娘はわたしの宝物
といった意味のうたは中国全土に広まり、うたえない人はいないということでした。何処の国でも同じなのかも知れません。その土地で生まれたうたはその土地で聞くのが一番いいのです。
かといって、子守唄は、土地の文化や風土と切っても切れないうたばかりではありません。
確かに子守唄は民俗学、言語学、文化人類学、音楽、心理学、女性学と多岐の分野にわたって研究されていますが、そんな難しい概念にとらわれるのは、研究者だけにとどめておきましょうか。
長く歴史の中で根付いた子守唄を原型とすれば、時代が変わった今は、その目的のためにうたわれるうたはすべて子守唄としてとらえてよいのではないでしょうか。広い意味では、童謡も、テレビのCMソングも、アニメのうたも、民謡や軍歌も、詩吟さえも、応用編の子守唄といえます。昔であれば、相思の唄、きこりの唄、馬子唄、船唄、など、一日の労働の歌が子供の守唄だったのです。
今であれば、童謡の中から生まれた名曲「ゆりかごの唄」や「ねむの木の子守唄」などはきっと後世の人にまで歌い継がれていくに違いないと思われるいい唄です。
15.DNAの中にある子守唄
私たちは一人一人が生きている今も、多くの先祖のDNAを体の中に持っています。一人で生まれ一人で生きているように思っているのは大きな間違いで、なんと一人が1700人ほどの先祖をその体に持っていることになるのです。その先祖の誰もが子守唄をうたわなかったなどとは到底考えられないのです。周りの誰もがまったく口ずさむこともなかったなどとは思えません。
いつか、東京の町田市の養老院で、痴呆症になったご老人から、子守唄を聞くチャンスがありました。「覚えているわけがありませんよ」と介護の方がおっしゃいましたが、私が子守唄ではなく「子供のころ、こんなうたをうたってあそびませんでしたか」と話しかけて「ずいずいずっころばし」や「おつきさまいくつ」と続けてうたっているうちに、口をもぐもぐさせながら一緒にうたいだしたのです。だんだん「ねんねん」といった具合に子守唄に移行していきましたら、なんと長い子守唄をうたいだしたのです。しかも、後で分かったのですがそれは幕末のころのざれで、「唐ものもお伊勢の風に驚きし、今はあべこべ 伊勢が驚く」といったものからそのフレ−ズが延々と続きます。そして、最後に「ねんねんさいさいねんころり」となります。戯れ唄の一つでしょうが、このうたをおばあさんは子守唄としてだれかから聞いていたようです。
痴呆どころか、大変な記憶力です。しかし、子供のころに覚えたうたはこうして決っして忘れる事がないのです。すっかり子どもに帰ったおばあさんの顔は、菩薩顔でした。どんな人にも、どこかでうたってくれた人と出会って可愛がられた時代があるのです。
これが人間のつながりというものです。眠っていた子守唄が顔をのぞかせたようです。
その後、そのご老人はうたを次々にうたうようになって、毎日とても楽しそうに暮らしていると伺いました。
16.子守唄はお父さんが唄ってはいけないのですか
とんでもない、是非うたってもらって下さい。
孫ができると自然にうたう子守唄も、我が子にはうたったことが無いというお父さんは沢山います。「いやぁ、音痴なものでぇ」とか「忙しくて」は通用しません。
そもそも父親とは何なのでしょう。
最近では母親の付随物のようになり「あなたも怒りなさい」といわれて母親の命令に従うといった父親も増えてきたと聞きます。
疲れているという一方で同僚とは声を嗄らしてカラオケに興じるというエネルギーは、憂さ晴らしのためだけに発揮されるものなのでしょうか。
しかし、父親たるもの、育児の責任は家庭にあって母親だけが子どもにかかりっきりなどという生活に安住しているとしたら、それは大きな間違いです。
育児する母親の安心と余裕は父親である夫が作るものです。
妻の支えは夫の愛情と信頼、というのは理窟であって、夫の手助けと誉め言葉が大切です。
赤ちゃんというのは、周囲の環境や刺激を積極的に取り入れることに長けています。
敏感に夫婦のありようをキャッチして、どうも不穏だとなれば、ご機嫌斜めとなるのです。
まず、授乳中はできるだけお父さんも、お母さんと一緒に赤ちゃんの様子を見てあげて下さい。
お乳を飲んでいるときは、赤ちゃんの大脳が活性化しているときであり、お母さんが一番ゆったりとしている必要があるときだということを忘れないで頂きたいのです。
いそがせたり用事を言いつけたりすれば、お母さんの気が散るばかりか、赤ちゃんが落ち着きません。当然お母さんの心も安定をなくしてしまいます。
母親を経済的に、または情緒的に不安にさせないという父親の役目をお父さんがひとりで背負うのは、現実にはむずかしい時代となりました。
しかし、子どもがいる以上、この小さな命を守るのは両親となった夫婦の最大の仕事のはずです。
父親はまず抱いてあげることから始めてみてはどうでしょう。
抱くという行為を意識的に行っているのは人間だけです。
動物は、抱くというのではなく子どもがしがみついていくといった感じです。それは生まれ落ちたときから、母乳を求めて自分のほうから母親に近づいていくことが動物の本能だからです。
人間はそうはいきません。抱かれるまで赤ちゃんは仰向けに虚空に手足をばたつかせているばかりです。不安定この上ありません。手を差し伸べてあげられるのは人間だけです。お父さんの手は「救世主」に近いのだと、認識していただきたいのです。
ついでに口の端に出たうたを、たとえ昨日のカラオケでうたったうたであっても、アレンジしてうたってみるくらいの「父親の心」にスイッチを入れていただきたいと思います。
昭和一桁ベビーブームの子どもたちの聞いていた子守唄には「軍歌」がとても多いという事実がわかりました。それは、戦地から命からがら帰還した父親の青春の思い出のうたが、戦地でうたった軍歌であったということです。子の誕生に当たって、父は命のうたとして、子を抱いて、または膝の上に乗せてうたったのでしょう。
どんなうたであれ、朧げでもそのうたを心が記憶していたということです。
父親こそ子守唄をうたうべきだと痛感します。
これからの日本は不安定で子がかわいそう、などとご託宣を並べるより、ても仕方ありません。貧しい中でも何人もの子を育ててきた自分たちの親のたくましさや明るさを復活させるためにも、次世代のためにもうたって欲しいのです。
17.子守唄は教育でしょうか
まず、教育とは何かを考えてみましょう。
読み書きそろばん、お稽古事、行儀作法や良し悪しの区別、道徳心や優しさを持つこと、成績や順位ばかりが優先される現代に忘れられている、人間の基本です。
人がどう人生を生き抜いていけるのか。生命は自然のままであっても、人生はよほどの智慧に裏づけされないと美しいものにはならないでしょう。
明治の人は、食、知、体、徳を全部揃えての人間作りが教育だと教えました。
その基本は生まれた家庭の中から始まると。
しかし現代では、その家庭が危ないのです。
家庭でしっかり体得できる「親と子の信頼、つながり」ができないという現実があります。挨拶や笑顔、日常の意思の通い合いさえ、教えなければできないというのも、妙な世の中です。いかに日常が閑散としているかということでしょう。
貧しくとも分け与え、一緒に喜びや悲しみを共有し共感できる思いやり。そんなものは絵空事になりました。
「家の子に限って」「何も言わないから良い子だ」と得手勝手に思い込んでいる親の、なんとおおいことでしょう。
つながり、人の命がつながれて生きている、というこの事実を真摯に考えるところから教育が始まっていると、私は思います。
子守唄は命の財産です。
今よりももっと貧しく、不自由な時代でも、母が子を生み育ててくれたからこそ、今の私がある。うたい継いでくれた人がいて、祈ってくれた人がいて今の私たちがあるという原点を見直す時期がきているのではないでしょうか。
18.おばあちゃんを活用しよう
ゆらゆら揺らいで子守唄
女はなぜ長生きなのでしょう。
自分勝手、恥知らず、ずうずうしい、よく食べる、我慢をしない。
ストレスという現代病を人様に与えることはあっても、自分は受けない。
散々です。当たらずとも遠からずなので、反論はできません。
人間だけじゃない。サルも犬も猫も、メスはみんな長生きです。
もともと神は女を作り、ついでに余分なものをくっつけて男を作ったとされています。戯れに神様の遊びの中で創られたのですから、男が虚弱なのは当たり前、という説もあります。
人間だって、幼児のうちは、たいていの男の子は弱いようです。
熱を出す。ひきつける。おなかを壊す。風邪引いたなどと、母親の手は容易に離れません。
「男の子は弱いわねぇ」という合言葉が、大きくなるまで母親の共通用語なのです。
平均寿命をかんがえても、「女はやっぱり長生き」なのです。
かく言う私の家も女系で、92歳の母は今も健在、慶応生まれの祖母も90歳までぴんぴん生きていました。祖祖母も86歳でみまかりましたが、このあたりになると江戸末期ぐらいの生まれでしょうか。何しろみんな長命です。それに引き換え、男のほうは戦争で大方亡くなったものの、病死も含めて全員短命です。
珍しく父だけが98歳という高齢まで生きましたが、無茶は絶対にしませんでした。母や妻に助けられ、支えられての長命といったほうが当たっているかもしれません。
食事は腹八分、柔らかなもの暖かなものが主体で、生もの冷たいもの油ものは禁物。酒も熱燗でほどほどに飲むと徹底していました。外食は決まった店以外ではせず、間違っても露天の飲食などには縁がありませんでした。寒さも大敵、夏でも腹巻を欠かさずつけ、冬は湯たんぽを床に入れて、部屋がは寒いということがないように心がけていました。
父は子どもの頃、「この子は八歳までは持つまい」と医者に診立てられたそうです。そのために家族が腫れ物に触るように育てたのが、一生尾を引いていったのです。女性たちの至れり尽くせりの努力のおかげで、父は長生きしたというところです。
さて、「おばあちゃん仮説」というのをご存知でしょうか。
おばあちゃんが長生きなのは孫とのかかわりがあるからではないか、というものです。
もともと人間は、生れ落ちてすぐに立つことも歩くことも食べ物を口に入れることも出来ません。
つまり、最初から「人の支援」を当てにして生きているのです。
子育て支援などという言葉はなにも新しいものではなく、最初からある子育てのかたちなのです。その支援に一番適しているのが「おばあちゃん」というわけです。
頼るならおばあちゃん。おばあちゃんなら安心して子育てを任せることが出来ます。
子育てしていることで体も丈夫になり、気も若くなり、使命感からしっかりもしてくるのです。
「しっかり子育て」は老後のサイド〔再度〕ビジネスである、と考えれば、暇をもてあますという生き方をしないですむというものです。おまけに母親の育児ノイローゼも解決されるでしょうし、夫婦への協力にもなります。その上でのおばあちゃん自信の長生きの元となれば、言うことなしではないでしょうか。
統計では、おばあちゃんが子育てを手伝ってくれる家庭に年子も多いとあります。
少子化対策の解決法のひとつにもなるのです。
どうですか。若くもないのにしわ伸ばしや美容体操をしたり、帽子をかぶってスニーカーをはいて、他人の家を覗いたり、お寺で賽銭をばら撒くより、よほど健康的ではありませんか。
この労〔老〕人を活用しない手はないでしょう。
誰かの役に立っていることほど、生きがいがあることはない、というのが人間です。
せいぜい活用すべきだと推奨します。
19.おばあちゃんの子守唄
おばあちゃんの子守唄は格別です。
孫の癖をよく知っていますし、体質も心得ています。無論泣きどころ、落としどころもおちゃのこさいさい。だいたい、遺伝というのは隔世に強く表れるということで、無理なく子育てが可能なのです。大声で歌うとなれば息も続きませんが、子守唄は繰り返しが基本なので、根気のいいおばあさんと子守唄の相性は抜群にいいのです。
感情をあらわにするのは大人気ない、という分別もありますから、子供がぐずったとしても動じることはありません。
ほらほら、畠のスイカの皮むいて
しまって置けよ、漬けとけよ
七月八月おかずのないときにゃ 重宝だ
坊やは誰の子 父ちゃんの子
父ちゃんによく似て 色白だ
坊やは誰の子 母ちゃんの子
母ちゃんに よく似てべっぴんだ
ワーワー泣く子にこんな子守唄を平気で唄える「年の恵み」を持ったのがおばあちゃんなのです。
※子どもゆめ基金(独立行政法人国立青少年教育振興機構)助成活動